プロフィール3、高校生

プロフィール

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高校生1



中学生の頃、一貫して勉強ができなかった私は
偏差値40代を常にキープしていました。
他の、勉強のできる同級生が、
ナゼそんなに偏差値が高いのかが謎でしたし
偏差値が高いことに、そんなに興味もありませんでした。

後々になってから聞くと、偏差値の高かった人達は、
朝早くから夜遅くまで、似たスタイルの勉強方法で
睡眠時間を削りに削って勉強していたようです。
当時聞いても、「集中力」「長さじゃないよ」としか
教えてくれなかったのですが。

やる気!元気!、目標、集中力。
いずれもなかった私ですが、
高校は行くものだと思ってましたし
卒業するものだと思ってましたし、
大学もいくものだと思ってました。
偏差値60くらいの4番手くらいのイメージの高校に行って
名前は知っている4番手くらいのイメージの大学に行って、
4番手くらいのイメージの会社に入るものだと思ってました。

早速、入学できそうな高校の選択枠が少ない私でしたが
決めることが大の苦手で決めたことが無いくらいの私でも、
決めなければならないので
「普通科」の「制服」で「自転車で通える」高校を探し
受験さえすれば入れるその高校に進学いたしました。

公立の共学だったその高校は、
暴走族、チーマーな方も含めて
バイオレンスな臭いを自ら発する方が多数いる高校でした。
今思うと、ほとんどの人は、
なめられる隙を出さないように必死だっただけのような気もしますが
喧嘩に負けると高校を辞めなければならないと言う
恐ろしい暗黙のルールがありました。
その喧嘩にしても、一方的に言いがかりをつけて
集団で囲み殴ると言うものがほとんどでした。

結果から言えば、そう言ったことには巻き込まれずに
留年せずに卒業をしました。

私のクラスの男子に付き合っている女性がいましたが
あるグループの男に「別れなければフクロにするぞ!」と言われて
別れさせられた人がいました。

そんな怖い高校でした。
当初、私の中学からも同級生が多数進学して
中々楽しかったのも束の間、
彼らは、すぐに学校に来なくりました。
友人が来ないのですから居場所がない私は、
自主早退、無断欠席、サボリを繰り返しました。
留年しないように出席日数を計算しながら。

サボって公園で缶コーヒーを呑んでタバコを吸っていても
とても淋しかったのを覚えています。
しかし、友人に偶然会えたり、友人と一緒にサボって
公園で話した時などは、楽しくって仕方がありませんでした。

学校では友人が新しくできたりもしましたが
どう言う訳だか、次々に学校に来なくなって自主退学していきました。
居場所の無い学校で、さらし者の様な、惨めな気分を味わうよりは
一人で公園に居た方が、わずかにマシでした。

幼い頃から変わらず、
一人で居る自分がいやでした。
それを人から見られることが特に嫌でした。

それに思春期ですから、女子の存在、そのものにも
自意識過剰になってしまい、
軽いノイローゼのようなものになり、
抑うつ状態にもなっていきました。

学校に行くと、ひどく疲れてしまうようになっていきました。
救いだったのは、部活でした。
部活の体をなしてはいませんでしたが、その分、自由でした。
それに2年までは、同学年の女子はいませんでした。
上と下はいましたが、普通に話せるので過剰な緊張状態にはなりませんでした。
体育会系でしたし、大会にも出ましたが、
不真面目な部活ですから、自由気ままな場所でした。
一つ注意したのは、部長にならないことでした。
私が1年の時の3年の部長は、2年生の部員と喧嘩をして辞めて行きました。
私が2年の時の3年の部長は、同じ2年の部員と喧嘩をして辞めて行きました。
私が3年の時の同じ3年の部長は、後輩の2年と喧嘩をして辞めて行きました。
辞めていった部長は、いずれもその後、
無口でおとなしく、悲しそうに、
つまらなそうに静かになっていきました。

部活だけは絶対に辞めたくはありませんでした。
居場所が確かにあったのですから。
私しか出ていない日でも、体を自由に、好き勝手に動かして
器具なども自由に使って、充実していました。
授業はサボっても、部活だけには出ていました。
同学年の女子が居ない上に、
後輩や先輩との会話や運動は、楽しかったですから。
ただ、3年になったら、なぜか同学年の女子が3人入ってきました。
ただでさえ、同学年の男子が私ともう一人になってしまったのに。
だからとっても嫌でした。