お正月、兄夫婦来宅も疲弊。後・復活。

兄夫婦が来宅しました。
お正月の夫婦での来宅は、コロナ以降なかったので、
とても楽しみでした。
若干、母の具合などが気にはなりましたが、良い意味で活発な感じがしたので、
心配するほどではない、っと思いました。

兄夫婦がご来宅。
お嫁さんの方はいつものように、とっても気を使ってくれました。
私は女性ではないし、お嫁さんでもないのでわかりませんが、
父の親戚にとても気を使う母を見てきたので、気の毒に思えるので、
回数が増すたびに、私もできるだけ気を使うようにはしてきました。
(兄は、俺にはもったいない。私は、兄よ素晴らしい方じゃないか。母は、兄を好きになってくれたのは嬉しいが、兄が不愉快なら別れてもしょうがない。囚われてほしくない女性の味方スタンス)
が、お嫁さんの方はいつも以上に、とても気を使ってくれていました。
最初から最後まで。
そして、時々そんなお嫁さんを気にかける兄。母も、ざっくばらんな感じで
活発な感じで、気を使わせないように、気おつけていたようにも思えます。

しかし、私はなぜか、当初からバテていました。
お嫁さんにも気をまわせず、兄に甘えてしまうような、
ぶっきらぼうな態度を終始とってしまいました。
お嫁さんはとても素直で純情な方だと思うので、
気だけを使わせてしまい、寂しい思いもさせてしまったかもしれません。
会話の仲間はずれ。(まるで)いじめですね。

言い訳をすれば私は兄夫婦来宅前から、とても疲労感がありました。
だから、お嫁さんがいないかのように、母と兄との共通の会話を
私の都合でしてばかりいましたし、とても気を使ってくれているお嫁さんを、
私は気を使わずに、かなりスベった人格で対応してしまいました。

兄夫婦が帰宅して、私が自分の部屋に戻ると、
疲労感と、私の妄想内の、父の思惑(計画)に対する邪推(私は人の心が読めないのに)、
を考えて嫌な思いになったり、過去の嫌なことを次々と思い出したり、
いつもの自分の一人のペースが、自分の部屋で一人なのに、全くつかめなかったりして、
疲労感も抜けず、邪推の妄想や過去の嫌な記憶ばかり浮かんできたりし続けたので、
これは年末年始で疲れているのだろう。っと思い、
睡眠を取れば、スッキリするだろう。っと言う、
とっても都合の良い、(自分勝手に)合理的な思考のもと、寝ようとしましたが、
今日の自分のだダメだったところが少し、自意識過剰に、きっと兄夫婦は私を心配してくれるだろう。
と言う、自意識過剰な自分本位の考えが浮かんだり、
父はどうしてメールの返信をくれないのだろうか。どう言う思惑(計画)があるのだろうか、
でもそれに乗るつもりは毛頭ない。などを考えていて、全然寝付けず、
そんな事ばかり考えても寝れないし、嫌になったので、
昔見た映画を思い出したりしながら、部屋の電気を消して、コタツに潜り、
寝れたら良いな。っと思いながら、昔見た映画の記憶をリプレイしていきました。

体は重く、全く寝付けず、落ち着きもなくなっていきました。
本来なら、母の湯たんぽのお湯を入れ替える時間でしたが、
体を動かす気になれず、食器片付けや、食器洗いも、今はできない。っと思うも、
私がやらなければ、母がやってしまう。そうなったら誰が嬉しいのだろうか。
誰も嬉しくないし、後で後悔するのは私だ。っと思い、
片付けなどを済ませはしたものの、暗い自分の部屋に戻って、コタツに潜って
過去に見た映画の記憶に浸るように務めました。

ネガティブなことばかりが浮かぶ頭の中と、自分本位の妄想。
全く寝付けない一方で目が冴えているのか、体は焦燥感を煽る感じでした。
無理やり、笑ったり、酒を飲もうか。っとも思いましたが、
テレビの光も、音も嫌でしたし、起き上がることもしたくはなかったので、
過去に見た映画の妄想に意識を持っていき、横になり続けました。

2~3時間経った頃に、少しずつ、ポジティブな今日の反省が浮かぶようになってきました。
時間はいつもよりも遅いですが、母の湯たんぽのお湯の入れ替えをしようという気になりだしました。
一通りの用事を済ませて、一応念の為に、改めて部屋の電気を消して
こたつに潜ってみましたが、2~3時間前とは、明らかに頭に浮かぶ思考が変わっていきました。
起き上がりたくない。光も音も嫌だ。っと思っていましたが、
ポジティブな考えも浮かぶようになってきたので、今日の考えをおさらいしてみました。

年末は、人もにぎやかだし、疲労も貯まるだろう。
母のことは、疲労があっても精神的疲労は皆無。むしろ感謝しかないですし、
とても勉強になるので、ありがたいくらいです。
そして、母はかつてず~とコキ使われ続けたからでしょうか。
私に感謝といたわりを言葉で伝えてくれます。
もったいないことです。母が私にやり続けてくれたことの足元にも及びません。
しかも、とても良い経験をさせてもらっています。やりたいからやっているのです。
兄に勧めたくらいでした。
兄も、母のお世話をしたいのなら、したほうが良いよ。
私はとても良い経験になっているし、勉強にもなっているよ。と
母と兄のお嫁さんがいる前で、兄に伝えたことは良かったと思えました。
兄のお嫁さんは、とっても純粋で向学心も高い方なので、「勉強にもなるよ」と言う辺りに
興味を持ってくれたようでしたが、その時の私は、疲労感が強かったので、スルーしてしまいました。

兄のお嫁さんに申し訳ない。あんなに気を使ってくれていたのに、
私は、まるで気を使えず、全然だったな。
母と兄と私の3人で集まったのならともかく、
お嫁さんが来てくれて4人なのだから、お嫁さんに楽しんでもらう。
そうすれば、お嫁さん大好きの兄も、楽しくなって、私と母は、
その二人が楽しそうな感じの流れで、嫌でも楽しくなったであろう。
きっと、4人で楽しめれば、もっと楽しかったはずだろうな。
次は絶対にそうしたいな。そう思い出すようになりました。

そして、疲労の「原因探し」をしてしまっている自分に気が付きました。
原因なんか自分でわかるわけないし、わかったところでやり直せないのに。
ノイローゼが悪化していたのかな。ポジティブな反省はしたいけれども、
「原因探し」なんかどうでも良い。そう思い浮かびました。
さらに、昼夜逆転しても、それはそれでしょうがないな。ノイローゼだから。
っという、軽い開き直りもできました。

お正月がすでにイベントですが、兄夫婦の来宅ももちろんイベントです。
いつもと違う、おせちをつまみながらお酒をダラダラ飲む。
私の内臓にしてみたら、いつもとぜんぜん違う時間に、お酒やらおせちやらを
放り込まれた上に、ダラダラと長い時間いつもと違うお酒を飲んでいましたので
「いつもと違うこの感じ。冗談じゃないよ。」っと
怒ったのでしょう。
それを受け取った脳みそは、「了解!内臓クン。ちょっとこいつの活動力落とすわ」っとなり、
活動力も思考力も落ちてしまった。
そうなると、何万年もマンモスと命がけで戦ってきたご先祖様の血を受け継ぐ私は、
体の機能が低下すると、命の危険があるわけですから、あらゆる不安やネガティブ思考が浮かんできます。じゃないと、仲間に殺されたり、獣に食われちゃいますからね。
それが何万年も受け継いで来た血液に内在されていますから、今の私は、緊張感で眠れないけれども、用心深さ由来の不安感から、ネガティブ思考が次々に浮かんできたのでしょう。
体というのは凄いものだなっと思いました。

この状態では、無理に寝れるはずもないな。っと思い、
お正月だから、非・日常的だし、昼夜逆転もするし、体がそうしたいならそのほうが正しいと思う。
っと言う、考えのもと、
お酒を飲みたくなってきたので、お酒を用意して、
後は流れで。っと思うことができました。


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Ubuntu 22.04 LTS にアップグレードしたら、Firefoxが起動しない。

母のパソコンを、ubuntu 22.04 LTSにアップグレードしました。
Firefoxのアイコンが画面横のお気に入りから消えていたので
左下の点々の塊をクリックして、Firefoxを右クリックして、お気に入りに追加しましたが
クリックして、数秒はマウスの矢印がクルクルになるのですが
自然に終わります。
失敗事例と、成功事例を最後に書いて、まとめました。
失敗例で成功する方がいるかもと思い、失敗例から書いていきました。

失敗
「ubunntu firefox 起動しない」で検索をかけ
ぱんはげ様のページに書いてある、アプリケーションのアプデートをやってみようとしましたが
最新版でした。
外部リンク Ubuntu 22.04 で Firefox が起動しない
失敗
国立大学法人山梨大学総合戦略情報機構 様のページに書いてあるように行いました。
<ホーム>/.mozilla/firefox/<ランダムな8文字ファイル名>.default/.parentlock
デスクトップ上に、ホームと書かれているアイコンがあるので開き
.mozillaフォルダーを開き、firefoxフォルダーを開き、<ランダムなファイル名>.defaultフォルダーを開いても、.parentlockがありません。
弘前大学情報連帯統括本部情報基盤センター様のページに行き
それを参考に、.mozillaフォルダーを開き、firefoxフォルダーを開き、<ランダムなファイル名>.default-releaseフォルダーを開くと、一番最後に.parentlockがあったので、削除しましたが、変わらず。パソコンを再起動しても変わらず。
弘前大学様のサイトに書いてあるように、左下の点々の塊から、ユーティリティーを開き、端末を起動。
コマンドラインを打ってみましたが、変わらず。
外部リンク 【Linux】Firefoxが起動しない
      ubuntuでfirefoxが起動しない
失敗
黒猫のデジタルな生活 様 のページを見つけて読んでいたら、
Firefox snap 版というものに変更になったようです。
Firefox snap 版をアンインストールして、パッケージ版をインストールすることにしました。
外部リンク Ubuntu 22.04 LTS に Mozilla Firefox の deb パッケージ版を導入する
おそらく私のやり方が間違っていたのでしょう。
そして、PPAというのがよくわからなく、mozillateam/ppa ってないけど。みたいなのが出てきて
上手くいきませんでした。
PPAは、Hbk Project 様 のページで、なんとなくわかりました。
外部リンク 【Ubuntu】PPAを追加・削除する方法について

成功(?)お気に入りとか引き継げず(home/.mozilla/Firefox/ フォルダー内に色々残っているけれどもやり方がわからない)(新規に home/.mozilla/FirefoxESR フォルダーができていた)
最初に端末に打ち込んだコマンドラインをただ並べていきます。

sudo snap remove firefox
sudo apt purge firefox
sudo add-apt-repository ppa:mozillateam/ppa
sudo apt update
sudo apt install firefox-esr firefox-esr-locale-ja

最初は、Firefoxをアンインストールしました。
2行目は、Firefoxないよ。みたいに反応された記憶が。
3行目に、PPAを追加しました。そうしないと、FirefoxESR版をダウンロードできないようなので。
4行目は、PPAに上書き保存みたいな感じなのでしょうか。
最後は、FirefoxのERSの日本語版をインストールします。
一応パソコンを再起動して、点々の塊を開き、最後に現れたFirefoxを開いて確認。
お気に入りや画面表示設定などはなく、新品の状態で開きましたので、
覚えている限りのお気に入りを追加していったりしました。
以前のFirefoxのお気に入りや各種設定は残っているので、いずれまた、
インポートできたらと思っています。
参考サイト 外部リンク
Ubuntu22.10のFirefoxをPPAのものに変更 matokens様
Firefox ESR and Thunderbird stable builds mozilla team team 様
Ubuntu 22.04 LTS に Mozilla Firefox の deb パッケージ版を導入する 黒猫のデジタルな生活 様
Ubuntu 22.04に上げたときに起きた問題と解決 κeenのHappy Hacκing Blog | Lispエイリアンの狂想曲様

父親の「そう言うところだよ」

母の体調が回復傾向になり翌日。
朝8時頃に、自宅に父から電話がかかりました。

約20年くらい前から、母に家を追い出された父は
月極マンションに1人暮らしをしています。
家から自転車で20分くらいの場所に。

何度も何度もかかってきた後、留守番電話に
「電話に出て」っと言う、非常に暗い声を残していました。

そこから私の携帯電話に着信で、「具合が悪い。お母さんが電話に出てくれない。膝が痛い」
っと、元気なく語っていました。
母の携帯にもしつこく、着信を残した上に
LINEの方にも「電話に出て」「具合が悪い」「膝が痛い」「医者に痩せたと言われた」と、
連続で送りまくっていました。

なんだろう?っとは思いましたが、
母は昨日まで体調を崩し、苦しんでいました。
それに、母からは「私の状態や体調は言わないでくれ」っとお達しがあるので、
午後になり、父に電話をしました。
母がどうして電話に出ないのかは知らないけれども。っと前置きした上で
どうしたのかを尋ねると、「体調が悪い」「家に行ってもお母さんは出てくれない」
「電話に出てくれない」「膝が痛い」とのこと。
声の様子から、落ち込んでいるのか、なにか強い不安のようなものを感じました。

その夜、父にメールをして、母の心配をしすぎているようだね。
不安や動揺もあるようだけれども、
全く母の情報がないのだから、母に対する心配から、不安が膨らみ、動揺しちゃうのは当然だよね。
でも、出る出ないは母親次第だしね。っと、メールをしました。

返信には、「体調が悪い」「家に行ってもお母さんは出てくれない」
「電話に出てくれない」「膝が痛い」「お母さんに電話に出るように言って」っと。
兄からLINEが私に来て、「父から具合が悪い。との連絡を受けたから、年齢もあるしなるべく早く電話したら、特に具合が悪いようではなさそうで、母が電話に出てくれないとかそんな感じで、よくわからない」っと、来たので、兄も母から言われていると思うけれども、
母の状態や体調は言えない上で、父は母の心配をしているんだね。だけど、連絡が取れないから
不安が膨らみ動揺しているのかもね。父には、母も長年ガンと戦っていて、
気持ちは50~60代かもしれないけれども、年齢は増しているから、
気持ちに体がついていっていないのかもしれない。気持ちと体がマッチしない分
精神的にも肉体的にも、疲れている部分はあるのではないか。私は年相応でガンも患っている母だから
やっぱり気持ちも肉体も疲れているように思うよ。っと父には伝えた。っと兄に送りました。

翌日、父にメールで、本当は父と母の関係の間には立ちたくはないけれども。っと、前置きした上で、
母がなぜ電話に出ないのかはわからない。
心配するのはわかるけれども、母にも疲れやなんかもあると思うよ。っと送りましたが、
どうも、父は母のLINEに連続で送りまくっているようで、
あれ?っとなんだか変だなと言う思いもありました。
私もモヤモヤと疲労が溜まっているのを自覚して、
父から母への心配をしてからの不安の膨らみによる動揺ならば、
なぜ母の負担になるようなことを、父はしているのだろうか。
モヤモヤとした思いと、母が、父からの連絡に強い負担を感じているようなので、
父から母に宛てられた、LINEを見せてもらいました。
しつこくしつこく、「体調が悪い」「電話に出て」と。

翌日、午後に自宅の方へ父からまたしても連続して電話がなりました。
留守番電話には「電話に出て」っとの暗い声を残し。
私は、父はボケが始まったのかな?っと思いましたが、
母が本当に嫌な思いをしているようでしたし、母の負担も考えながら、
私自身も、変な疲れが溜まって、睡眠がわかりやすく乱れたので、
一回、ボーッとしながら、今日までの父の情報から、
この違和感と変な疲れはなんだろうと、ボケーッと、コタツに潜って考えました。

父は、強い不安が膨らんでいて、動揺しているということ。
それが母に向かっている。しかし、母は一切反応しない。
父の不安が更に膨らみ動揺も増して、電話やLINEがエスカレートしている。
しかし、それは母にとっても、私にとっても、強い負担と疲労
(簡単に言えば嫌な気持ちを強いられる)
を増すばかりで、一体父の目的は何なのだろう。
母に見せてもらった、父からのLINEは、母を心配しているものはなく、
母の都合や様子をうかがうものもなかった。
何に不安を膨らませて何に動揺しているのだろう?
父が母に伝えてきたことは、自分の体調が悪いとか、そればかり。
父は、母を心配して不安が膨らみ動揺しているのではなく、
父を心配しない母に対して、不安を膨らませて動揺しているんじゃないか!
と言う考えがしっくり来たと同時に、そういえば、昔からそう言う部分がバッチリあった人だった。
そんな思いが、クルクルいくつもいくつも、浮かんできました

これまでは、自分の父であり、長年に渡り家族のために一生懸命だったし
実際、私は父を尊敬して感謝という言葉では表せないくらい、凄い人だと思っていて、
今もその気持には全くのブレがないのですが、
その思いによって、私自身が強く感じている不快感や疲労感などを
無理に抑えては居ないだろうか。と思うにいたり、
とりあえず兄にLINEで、父は、母を心配して、不安が膨らみ動揺しているのではなく、
父を心配しない、母に対して、不安を膨らませて動揺しているみたいだ。っと送ると、
兄から、
なんだか、わかる。
「そーいうところだよ」ってやつね。
と返ってきました。

父には、昔からそう言う部分がしっかりあって、
こういった部分とまともに人として向き合うと、
嫌な気分になるし、疲弊するし、ガッカリするし、
私自身にもそう言う部分があることを思い出して嫌になるし、
激しい徒労感にみまわれて、何度も経験してきたことだった。と考えが固まり、
私の中で、父のそう言う部分は、サイコパスだな。っと思うことで、
考えるのをやめました。
サイコパスの意味を調べたり、そこからさらに考えることを辞める。
父のそう言う部分はサイコパスである。それ以上考えない。
そう思い、ボケーッとするためにコタツに潜ると、
だんだんイライラしてきました。そんな部分と、思いやりや気遣いを持って接してしまった。
兄や母はとっくに気がついていたんだ。さすがです。
なんだか私の腸も動き出し、久しぶりにトイレに行きました。

バカバカしいなっと思いながらも、それでも、尊敬する凄い人なのは私の中でブレず変わらないので、
(サイコパスな部分は除く)
気を使って、不安と動揺の中にいるであろう父を刺激しないようにメールを送ると、
「お母さんは突然会ってくれなくなって電話も出てくれなくって、
なにか行き違いがあるのだと思う」「これからも、電話は挑戦し続けようと思います」と、
こいつバカか!?っと、尊敬と感謝の念をブレずに持ちながらも、そう思いましたし、
母にこれ以上嫌な思いや、ストレスを与えてほしくはないとも思ったので、
父の不安と動揺を刺激しないように気おつけながら、メールを送ろうと思いましたが、
その前にもう一度母のスマートフォンを見せてもらいました。

着信多数。LINEのメッセージを見ると「マンションがエレベーターの交換工事をします」
「6階から階段を上り下りできません」「出前をやっている店もありません」
「膝が痛いです」「このままでは餓死してしまいます」っと。
私の方にもメールが来ていて、「マンションのエレベーターが使えない」
「膝が痛いから6回の階段の上り下りは無理です」「出前をしてくれるお店もありません」
っと、届いていて、
改めて、嫌なガッカリ感と徒労感に見舞われました。
それで不安になって動揺していたのか。

思い返せば、約20年前。
母が派手にブチ切れて、父を家から追い出しました。
当初、兄も私も、母の気がおかしくなった。っと思っていました。
父の話を聞いても、突然理由もなく追い出された。
(奇行)を受けた。被害を受けている。困っている。と言う言葉に、
父に同情して、母に元に戻って欲しいと思いました。

が、父に何度か会って話を聞くうちに、被害を受けている。困っている。っと言うばかり。
自分のことばかりを伝えてくるだけです。
これでは母の味方がいないんじゃないかな?
っと思って、色々と過去を振り返ったり思い返してみると、
母は、ずっと、ず~っと、身を粉にしただけでなく
父、兄、私に、こき使われ続けてきました。
しかも感謝の念も、ありがたいという気持ちもなく
やって当然という感じです。

例えば、犬が「ご飯くれ!」と騒ぎ出すと、
犬が鳴いてるよ!。前もって作っておけばいいのに。と母は言われてきました。
家の草が伸びれば「草が伸びてるね」。
網戸に穴があいていれば「網戸壊れているね」。
雨樋が詰まると、母が雨の中屋根に登って、雨漏りをなおしました。
みんな、母がやることが当たり前だと思っていたのです。
しかも、母は頼まれたのではありません。感謝もされません。
よく今までブチ切れなかったと思いました。

父・兄・私は、母に対して「主語」がありませんでした。
「私は草が伸びていると思います」「私は犬のご飯をお母さんに作って欲しいと思います」
「私は網戸が壊れていることを見つけました」。
で、頼むべきなのです。「お母さん草刈りをしてくれませんか」
「お母さん犬のご飯を作ってくれませんか」「お母さん網戸をなおしてくれませんか」
最低限、そう言えば、「はい」か「いいえ」と言う、「いいえ嫌です」と言えます。
「ご自分でやってください」とは母は言わないでしょうが、
そう言わない母を気遣い労って、「私がやります」となぜ言わなかったのか。
それまでは、「ヤレ」ということは言わないのに、やらせていました。
しかも、それらがどれくらい大変な作業なのかも考えない上に
母に対する思いやりや、いたわりの気持ちさえなく、もちろん感謝の言葉もありませんでした。

母は、嫌というほどこき使われてきました。だから、父からの連絡も
「また私を使おうとしている」とわかったのでしょう。
しかし、父にこれ以上電話や連絡をされても、母に余計な負荷がかかるだけですし、
少なくとも私は、父(サイコパス以外の部分)を尊敬と感謝で溢れてもいます。
ので、気を使い、そして父のここ数日の行いを、
不安と動揺があると思うからそうなると思うけれども。と注意深く書きながら、
父がガンの時、何度も電話をかけてくる人に対して「距離を取りたい」と思うのではないかな。
LINEなどの内容で「私の心配や都合を考えていないではないか。自分のことばかり不安と動揺を何度も送ってきているではないか」っと、思った相手には、やはり距離を取ろうと思うのではないかな。
っと、ヤンワリヤンワリ書いて送りました。
それに、父には痛い思いをしてほしくないし、怪我などをしてほしくないから
遠慮なく、買物でも何でもしますよ。っと。
その日に返信がないので、嫌なことを言われたという父のリアクション
「嫌な顔をして、ムスッとする」をやっているのかな?と思うと、
こっちが嫌な気分になっていきました。
昔、嫌な顔をしてムスッとする。をした父に、
嫌なことを言われたのなら、言葉にして言ってもらわないと分からないよ。っと言うと、
嫌な顔をして、ムスッとされました。徒労感。ガッカリ感。

翌日父から返信が来ました。
「その通りだね。これからもどんどん指摘してね」っと、
「お前が買物でも何でもしてくれると書いてくれて嬉しかったし、落ち着いたよ」っと、
メールの返信が来ました。
私は、なんとか母を守れたような気になれました。
父から頼まれれば、喜んで行くつもりでいます。
父が頼んできてくるかなという心配もありますが。
それと、今、出前の方法はたくさんあることや、介護保険の申請なども提案しましたが、
綺麗にスルーされました。何事もなかったかのように。
やってもらうもの。もしくは、私が心配して、私が自主的にやるものだという、
考えでなければ良いのですが(そう言う考え自体がないのかも)、
父のサイコパスな部分を考えると、十分ありえます。
私が心配して父の家に行く。そう言う使われ方をされたくはないのですが、
私にも父のサイコパスな部分は今もしっかり自分の中にあると思います。
だから、余計に嫌なのです。

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出来ないことに不安をふくらませて焦る(母の体調不良)

かつてお釈迦様が言ったとされる「第一の矢第二の矢」の話と、
キリスト教のニーバーさんが言ったという「ニーバーの祈り」と言う
2つの言葉を思い出すことで、
苦しんでいる母に寄り添いながら、自分の不安や動揺を抑えて、
なんとかできるようにしていかなければ。っと言う焦りもありながら、
こういうものならば、受け入れなければ。と言う思いも浮かびつつ、
やはり、動揺と不安とあせりは、母が回復するまで消えませんでした。

お釈迦様の「第1の矢第2の矢」は、様々な解釈やたとえ話があるようですが
1本目の矢は、老い・病気・死、地震などの天災などで、
さすがのお釈迦様も、この1本目の矢は刺さるようです。
しかし、2本目の矢(老いの恐怖や抵抗、病気に対する不安、
死に対する恐怖や不安、避けようのない出来事に対しての不安や怒りや悲しみ)は、
お釈迦様には刺さらないと言ったようです。
外部リンク(.pdf)まことの保育202105_今月のことば_cc15

「ニーバーの祈り」はそのままで
「神よ、変えることの出来ない事柄については、それをそのまま受け入れる平静さを、
変えることの出来る事柄については、それを変える勇気を、
そして、この二つの違いを見定める叡智を、私にお与えください。」
外部リンク ニーバーの祈り|心に響く言葉|モチラボ


母が体調不良をおこし、日に日に悪化していくように思えました。
私は、不安と動揺がありましたが、
表に出さないようにしながら、母の体調を少しでも聞いていこうとしました。
母は、初めのうちは寝込んでいるだけのようでしたが
強い吐き気や倦怠感があるようです。
母に聞いてみると、「食い過ぎた」っと言うので、食い過ぎでダウンしたのか、っと
当初は思っていましたが、日が経つごとに、発熱、胸や背中の痛み、なども加わり
介助なしでは、寝返ることも、起き上がることもできなくなっていました。

この時の母が言うには、「食い過ぎ」はブレることはなかったのですが、
背中や胸の痛みは、昔経験したことのある、気管支喘息に似ている。っというものでした。
母の背中をとんとん叩いたり、首の付根などをもんだり、
起き上がる、立ち上がる介助をしました。

昔、兄が喘息になった時も、首の付根や背中の痛みを訴えていて
特に、体が凝りまくって苦しいと言っていました。
私はお医者さんではないので、わかるはずもないことは自覚していましたが、
うなり苦しみながら動けずに寝ている母が心配で、不安感と焦りが募り、
検索をかけてみたり、近所の内科医を調べていきました。

やはり気になっていたのは喘息、気管支炎、胸膜炎などで、
コロナかもしれないとも不安を膨らませていきました。
それに全身転移の末期ガンで、薬もやめて、そう言う影響があるとも考えました。
(その場合は受け入れるしかない。っと)
分からないだけに、動揺して、不安も強く、自分がお医者さんでもない。
それはわかっているつもりでしたが、苦しんでいる母に、
「明日病院に行こう。我慢は必要ないよ。近場の病院でもいいし。睡眠も取れないみたいだから」
っと、うながすと、「行かない(キッパリ)」と言われてしまいました。
お風呂に入っていないことを気にしてるのかな?
確かに、発熱があるということは、悪くはないし、多少声に元気が出てきたとも思うけれども
とてもつらそうで、気管支炎などだったら、悪化するだけではないだろうか。
っと言う思いもあり、「近所の病院に予約だけ取るから、行かないならキャンセルするから」
っと言うと、予約だけは取っていいことを承諾してくれました(渋々)。
その日の夜の母は本当に苦しそうで、
母の要望で、背中を擦り、背中をトントンして、寝たまま水分をとってもらいました。
(ストローって便利ですね)
私にできることは、それぐらいですし、寄り添っていることしか出来ません。
部屋に戻った私は、早速近所のお医者さんを探し、当日予約制ということなので
電話帳に登録。そしてトランシーバーを購入いたしました(不安とあせりの具現化のようです)。
母はLINEで私を呼ぶのですが、もうスマホを持つことも辛そうでしたから。

以前、母の病院の看護師さんに相談した時に、
こういうものだと言うことならば、それは受け入れます。っと、
薬の副作用で苦しんでいた母を心配して、カッコ良いことを言いましたが、
実際母が苦しんでいるところで、寄り添うことしか出来ない自分と
苦しんでいる母に不安を強くして、何故苦しんでいるのかもハッキリとはわからずに不安で、
全然受け入れていませんでした。

翌日、病院に予約の電話を入れようかと思い、
母に聞いてみて、ガンの病院まで行くか、近所の病院に行くかを聞こうと、
母の寝床に行ってみると、「凄い良くなった!」っと開口一番に言いました。
「じゃあ、病院はどうする?」「行かない。昨日がピークだったみたい」とのこと。
ホッと胸をなでおろしました。

それにしても母の凄さを思い知りました。
一貫して母が言っていた「食い過ぎ」だったようです(真相はわかりませんが回復したので)。
しかも母は、その上で各症状を受け入れつつ、できる対処をして行き
出来ないことは私に頼み、結局回復してしまったのですから。

昔の偉い人は、最終的な拠り所として「内なる直感」を大切にしていた人も居たようです。
自分の経験や、知恵や、社会との関わりの中で培ってきた常識や、
共有的な知恵、文化・伝統・歴史などを頼りにした「直感」ならば、
もの凄く頼りになりそうです。
外部リンク You Tube 【東京ホンマもん教室】「神」を無くせば「クズ」になる!?~統一教会問題を改めて考える~(9月24日 放送分見逃し動画)29分55秒から

母は長く生きて来て、様々な知恵や経験も持ち、
母の親兄弟との生活や、社会性・職場などで得た、共有知識も豊富でしょうから
もし今回母が、「直感」を頼りに、症状を受け入れて対応し、
出来ないことは私に頼み、私を頼ってくれて、回復しちゃったのだとしたら、
尊敬の念を強くするばかりです。

結局私は、いつもの私でした。
考えることや、そうしようと思うことは格好をつけているのに、
動揺して、不安にかられて、妄想が膨らんで、病院に連れて行こうなどと、
母に余分な負担を、私が安心したいがためにしてしまうところでした。

後は、母に、今の体力や行動範囲。食事の量や味の濃淡。等を、
今の母の体にあったペースでつかんでくれたらと思います。
(私がこんな事を考えなくても、母は、もうすでに自分で獲得しているとも思いますが)

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診察日(社会的共有時間と孤立)

前回の診察時には、母が先生に挨拶をしたい。っという事でしたので
母が挨拶の後に、私の診察となり
あまり話をしませんでした。

今回は、私1人での診察ですので、
前回の診察の時に言った「お金さえあればなんとかなります。無いですけど。」っと、
母が先生に私のことをそう言ってくれたようなので
私もそう言いましたが、これを訂正しに行きました。

仮にお金があったとしても、生きていけるはずが無いと思っています。
今の私の、自分以外の他人との関係は、「母」がほとんどです。
ですから、母が死んでしまったら、極端なくらいに
自分以外の他人との接点がなくなります。
これは結構キツイことだと思っている。というか、無理。と言う趣旨で、先生に話そうと思い
待合室で待っている時に、雑誌コーナーにあった
「こころの元気プラス2022年10月号」の特集「つながるって大変」を読んでいました。

ちょうど今回先生に話そうと思っていた、人や社会とのつながり等を
紹介してくれている記事でした。
すべて参考になったのですが、特に「無理しない」「焦らない」と言うことを
感じさせてくれた、実体験の経験談でした。
そして、社会や自分以外との他人とのつながりにおいて
私は今もそうなるでしょうが、
まず、雛形のような人間関係を持ち、自分が疲れて、ほどなくしてつながりが切れてしまいます。
そしてここから、経験談や思いを書かれているのですが、
自分次第の、自分なりのつながりにいたるケースが主に前半で、
人や社会との明確なつながりはないが、
経験談を書かれている方の考えでは、こういうつながり。ああいうつながり。
も、つながりだと捉えている方々のお話が後半部分になっていました。

最近読んだ、中野剛志先生の「奇跡の社会科学 現代の問題を解決しうる名著の知恵」を読んで
(私のような低学歴のモノでも楽しく読めました)
社会・組織体の中での人間性がとても必要で不可欠だとも考えました。
そこから見えてきたのは、
やはり人間性が大切であって、効率性や合理性ばかりを追求したり、
学校などで言えば、喧嘩が強いとか、運動神経があるとか、絵がうまいとか、
(それらすべてがなく居場所もなかった私ですが)
そう言うことではなくって、それはそれで良い。
自分が自分であるという認識は「我思う故に我あり」ではなく、
他者との関わりや、会話、タダ居る。それでまずは良いという風に感じました。
そして、日本語を話し、父と母から生まれて、いつも通る道路や
よく行くお店などがあって、家ではテレビを見たりする。
そういった要素があるのだから、そこに要られることが居場所はなくても出来た。
そして、それは社会性を持ち学び維持していく上で、とても大切なことだった。
っというように自分なりの理解をしていきました。

不登校や、学校が苦しい子供などが無理やり行く必要がないのも
その組織や共同体にいて、人間味が押しつぶされてしまうのならば
そもそも行く必要がなく、その組織や共同体や学校が、合わない人が出てくるのは当たり前です。
特に未成年は、多感なのですから、むしろいろいろな感性を持った子供が出てくるのは
その学校の健全性でもある証が不登校なのかもしれません。

中野剛志先生の本を読んで、「社会のマクドナルド化」に警鐘を鳴らすようなイメージでした。
低コストで、時間どうりに、いつも同じ味の商品が出てくる。
しかし、そこで働く人の離職率や休職率は高く、
人間はそういった過酷な環境下で働き続けることは出来ない。
客の側にしても、座りにくい椅子でいつもの味を食べて
長い目で健康を考えると、低コストなのだろうか。精神的な健全性があるのだろうか。
と言った部分で、結局は合理的でも、機能的でもないのではないか?
と言う感じでした。
大人でもそうなのですから、多感な青少年が必ずしも、決められた学校に
通うことが楽しい人もいれば、行きたくない人もいるのは当然でしょう。

日本語で放送されているテレビを見ることも社会との繋がりでしょうし、
自分を生み育ててくれている親のもとに居ることも社会性でしょう。
ただ、精神的にはきつくなっていくと思います。

つまり今回の診察で先生に言いたかったことは、
母が死ぬと精神的にきつくなっていく。
過去の記憶をたどったとしても、その存在の大きな部分。母がいなくなるのですから。
共有記憶ではなく、個人の記憶となると、それは妄想かもしれません。
学校・組織・家族・他人、との共有の記憶ではない
個人の記憶は、あまりにも不確かだし、妄想だと言っても良いのかもしれません。
そのような個人だけの記憶や考えは、拠り所がまったくないために
そして不確実で不確かなために、後悔や自責の念にとらわれ始めた時に
あまりにももろすぎる上に、歪んだ方向性に進むか、自分を責めることを止められなくなるか。

社会と関わりを持ちたいけれども、
今までうまく行った試しもない。と言う所で「こころの元気プラス」を読み
「焦らない」と言う気持ちが持てたのは非常に大きかったです。

人間関係や他人との関わりは、わずらわしさも多くあります。
だけど、自分以外との他人と関わらないと、
いくらお金があっても生きてはいけないでしょう。
そして私やうちの世帯にはお金がない。
その上で母がいなくなる。
恐ろしいのですが、
だからといって「焦らない」
だいたい私は、
雛形のような真っ当な感じを求めて失敗します。
自分の中での他者との共有性を感じられる時間を少しでも過ごせたら
それはそれで社会性だとも思いたいところです。
母は「私が死んだらあんた一人なのよ」と言われて「全然大丈夫。なんとかなるし」っと
格好のいいことを言い続けていますが、
実際は、落ち着きを持って考えて感じていかなければとも思っています。

追記:投稿30分後
自分で読み返し、自分がアホであること。めんどくさい。そう言う考えだからじゃないか?
と言う考えが浮かびました。

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母の薬の辞め時

前回緩和ケア病棟の看護師さんに、相談をして、
母の考えはある程度固まっていたようです。
副作用のある薬はもう飲みたくない。

診察中の母を待っていたら、母から呼ばれ、
途中から一緒に先生の話を聞くことになりました。

先生は、今まで母がどういう薬を飲み、どういう経過をたどって
現在はどういう状況で、今も、いくつかのお薬や点滴、等の
選択肢があるということを
とても丁寧にわかりやすく話してくれました。
そして今回、母が副作用のあるお薬はもう飲みたくないと言うことで、
ガンを抑える薬の治療はすべて止めることも。
1週間に1回位予約していた問診やCTも全てやめ、
次回は約2ヶ月後の予約となりました。

これからは、ガンが増えていき、それに伴って症状も出てくるでしょう。
痛みが出てきたり、お腹に水が溜まったり、様々です。
そうなった場合、これから先は、対処療法、緩和ケアとなります。
っとのことでした。
そして、母の意向で延命措置はしないこと。
特に心臓マッサージや、電気ショックなどで、一時的に組成することもあるが
末期がんの患者さんの場合はあまり勧められないということも。
ので、母と共に確認書類にサインしました。
おそらく人工呼吸器や、点滴なども。

母が薬をやめたことを、その場で考えるのは無理だと思い、
一旦家に持ち帰ってから考えようと思い、
母を車椅子に乗せて、お家まで帰りました。

家に帰ると、悲しみがどんどんと湧いてきました。
いろいろな不安や、母のこれからのことを考えたり、
いよいよ、緩和・対処療法に入っていったか。お別れの段階が近いのか。
母は、一時的に元気になるかもしれないけれども、
ガンが増えていき、衰えていくんだ。そして死ぬんだ、っと。

「悲しみ」は、喜怒哀楽の感情だと思ったので、
私は、「感情は抑えない」という考えなので、
ただただ、悲しい思いが湧いてきました。
自分を責めたり、過去の後悔をしたりという思いは
自分を責めても無意味。過去の後悔も無意味。
自分を責めるにあたっての、裁判でも通用する「確かな根拠」がなく、
過去に対しても、やり直せるのならば良いのですが、
(もしくは過去をタイムマシーンで他人と見ることができる訳でもない)、
過去に戻ることはない上に、過去というのは記憶の産物で、
自分の妄想と同種類にも思えますし、過去にこだわっても良いことがない。
だいたい自分の過去というのは、後悔や自分責めばっかりしちゃうくせに
自分の記憶(≒妄想)と言う不確かなものなので、それにも無理がある。
自分の過去はどう頑張ったって、後悔とか自分責めとか、過去を脳内リプレイしてに苦しむとか、
になるしかないし、
これからもその繰り返しであることはしょうがないと思っています。

一方で、過去の母にも現状の母にも、なんで母はこんなに頭が良いのだろう。
薬をやめたのも、母が決めたのだから、今が最高のタイミングなのだろう。
しかし、なぜに母はこんなにも感覚的にも頭がよく、偉大なのだろう。
本当に今一緒に生活できることがありがたいし、どれだけ私が助けられていることか。
もはや凄すぎて偉大すぎて意味不明です。

ただ、母親自身も、今回のお薬で散々その副反応に苦しみ、
このお薬をやめることは、ガンを抑えることを辞めることでもあるという
理解はあったものの、やはり、近代医療に見捨てられたか。
っと言う悲しさがあったようです。
死に真っ直ぐ向かっていくという、想像もつかない悲しさもあったでしょう。
しかしその一方で、CTの検査による体と気持ちの負担や、薬の副反応を考えなくていいなど、
楽になった部分も芽生えてきているようです。

もう、ガンを抑えることはないでしょう。
やはり、悲しいことです。

前回、私の精神科のお医者さんに、お金さえあればなんとかなる。っということを
母は、挨拶の時に言ってくれたようで、先生にもそう聞かれて
お金さえあればなんとかなりますね。っと気軽に答えてしまいましたが、
お金があっても(実際無いのでしょうがないですが)、社会とのつながり。
厳密に言えば人とのつながり、社会に関わって生きていくことが、
なくなりつつあることは恐ろしくもあります。
(母には余分な負担や心配をかけたくないので
お金さえあればどうにかなるということも、「うん。そうだね」っと言っています
母には、生きたいだけ生きて、余分な心配や負担がなく、死にたい時に死んで欲しいからです)
(こういうカッコ良いことが言える立場にない自分が申し訳ない)

兄は自分の家庭をもっています。
ですから、人間関係においても、兄弟ではありますし、
実に頼れるし頭もいいし勉強もできる凄い人なのですが、
別の家族の人なので、連絡は遠慮しています。
たまに面白い記事や動画を見つけたら送るくらいです。
兄にとっては自分の家族、つまり奥さんがかけがえがない存在でしょうし、
兄が務める会社や、奥さんの会社、親戚、そして友人関係があり、
そこを考えると、控えめな関わりになってしまいます。

私の社会との関わりは、
父と母。になります。あまりに偉大な存在です。
金さえあれば孤独に生きていけるような人間など、居るのでしょうか。
働くとか、社会に奉仕するとか、それができれば良いのですが、出来ませんでしたし
これからも出来ないでしょう。
そうなった時に怖いのが、社会に迷惑をかけることで関わろうとすることです。
しかも無意識に(迷惑や凶暴や他人を尊重しない等)。
話し相手や相談相手が居ないと、考えがブラッシングされたり
フィルターを通したり、簡素化されたりが出来なくなり、
一般性や社会性を大きく失うでしょう。
例えば、立ちションをすれば、犯罪ですし、迷惑もかけますし、家や近所を汚された人を傷つけます。
ですが、そう言う当たり前の思考が、できなくなっていくのではないかという心配もあります。
今考えてもしょうがないことですが、
今お世話になっている精神科の先生も、いずれは診療をやめるでしょう。
父もどうなるかわかりません。
そこは今から考えておかないといけないかもしれません。

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母の病院に相談しに行くにあたって

母の通院病院は、患者もしくはその家族の相談窓口が充実しているようで
不安や疑問などの相談に乗ってくれるようなので、
母の体のかゆみや体調不良が顕著に出始めて、2週間位した時に
さすがにこれはおかしいのではないか。っと言う思いが浮かびました。

以前から、テレビや本などで見聞きしてきた、癌の終末期とは違い
その時の母、かゆみやだるさ、体力ダウン、階段を登っただけで動けなくなり
布団からほとんど動けなくなっていました。

私がテレビや本などで見聞きした癌の終末期は、
徐々に枯れて行き、体の中の水分や栄養を使いながら
枯れていって、死を迎える。
それは患者本人にとっては、ガンの場所にもよるが、
穏やかに進んでいくものであるようだ。
進み方のスピードには、個人差などがあると思うけれども、
かつての終末期医療の、点滴の過剰投与で苦しみ
お腹から水分を抜き、苦しみ暴れる患者を、鎮静剤と拘束具で縛り
「溺れ死に」を苦しみ続けた後に、苦しんで迎える。

今は違うと思っています。
少なくとも私が読んだ本やテレビの情報では、平穏死を迎える。
痛みや苦しみなどのケアーはするし、最低限の水分などの補助はするけれども
基本的には患者の体に任せていく。
そう言うものだと思っていましたし、
緩和病棟がある今の病院と、先生は、当然、緩和ケア-と言う選択を考えた上で
診察および薬の処方をしてくれていると思っていました。

今の先生に変わってから、イブランスという薬に変わり、強い薬を多めに処方し
翌日から母はダウン。1ヶ月以上ぐらい寝床を動けなくなり、気分も最悪な模様。
私は母は死ぬのかと思いましたし、薬をやめたほうが良いとも言いました。
おそらく母は命からがら、病院に行き診察してもらうと
一旦薬の投薬は中止して、母は徐々に動けるようになり、気分も快方に向かっていくと
今度はその薬の量を減らして処方。
この経過で、おそらく母は戻らない体力を相当消耗したようです。

何ヶ月か前、肝臓のがんが増えていて、
薬を変更。翌日から、体のかゆみ、吐き気、体力低下、気分の悪さが顕著に現れ
体もむくみ、苦しみと我慢を強いているようにしか見えなくなっていき。
布団から出れない生活と、体のかゆみや吐き気、体力低下、気分の悪さなどが
強く続き、私は病院に行ったほうが良い。かゆみは我慢するものじゃないし
ガンの結果かゆみが出るのならば、緩和してもらうべきだろうと思っていました。
母はがんの病院に行こうとするも、近所のバス停まで行けず、
体調が悪化、しかしそれでも母は、タクシーを拾い、病院まで行き、
先生に診察してもらうと、服薬は一旦中止。
後日同じ病院内の皮膚科に行き、塗り薬と飲み薬を服薬。
徐々にむくみが取れて、かゆみも減っていき、気分も快方に向かっている模様。
ガンの先生の診察では、今回の薬の量を減らしての投薬再開を提案されるも
母は、もう飲みたくないと言っており、先生にそう言って良いかどうかを悩んでいる。

母の考えは、薬を飲んで苦しい思いをしたくないし
抗がん剤や放射線も、やりたくない。
もう死ぬのだし、その結果、死が早まっても、それで良いっと。
私も同じ考えで、例え命が長らえても、苦しみや我慢を続けた後に死ぬよりも
緩和ケア-などの利用も強く視野に入れて、もう母がダウンをすることなく
苦しみや我慢を続けることもあってほしくない。っと、思っています。

要約すれば、今の先生に対しての、明確な不満を相談しに行こうかと思っています。
先生にとってガン細胞が増えないことと、それ以外の体の部分をどう考えているのか。
それ以外の体の部分はとても重要だと思う。体は絶妙にバランスを取り始めるはずだから。
もちろんこれ以上ガン細胞が増えないほうが良いとは思うけれども
母の意志と、母の体が行うことを、尊重したいし、
強い薬を、多めに出すことで、もう母は、苦しみや我慢を続ける生活はしたくないと思う。
どうか先生には緩和ケア-と、我慢のない生と死を迎えたいことを
強く視野に入れた診察をして欲しい。
今の先生はガン細胞だけを見ているように感じてしまう。
穏やかに終末期を過ごし、穏やかに、そして母が死にたいときに死んでほしいから。


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母との生活時間

私の精神科の先生に、母が挨拶をしてくれたその日の夜、
無性に悲しくなっていきました。

歳をとり、癌になって、体も小さくなり、動くのも大変そうで。
以前のような体力にはもう戻らない。
そう考えると、少し前まで、元気にしていた母を思い出したり
過去の母を思い出したり、そして、母には申し訳ないという
自分で自分を責め、後悔する。っと言う、循環に入っていました。

その循環の中に居て悲しみが増していく自分を自覚していましたが、
喜怒哀楽などの、感情は抑えないほうが良い。っと思っているので
猛烈に悲しいという気持ちは抑えないでいました。

布団に入って、母の今。母の体の現実。などを考えてみました。
癌は母の体から出来たもので、母の体の中で増えてきたし、増えている。
それは私や家族が母に与え続けたストレスが大きいだろう
(でも、因果関係はあまり考えない、過去の記憶頼みだから)。
癌の薬が丁度良く効いていた頃は、母の体にも目立った副反応はなく
その感じで進んでいくのかと思っていたら、今回の強い副作用で、
体力をガタっと落とし、削られてしまった体力はもう戻らないと思う。
癌のお薬を中断して、副反応が抜けていってはいるが、少しずつ、ゆっくりとで
母の年齢的な体のおとろえとともに、気分よく改善することも最早ない。
母の体の中で癌細胞は生まれて、増えていっている。
母の体力を奪いながら。
そう考えていく中で、この考へはまとまることが無いだろうっと、思いました。

過去に記憶を戻しても、母の癌が良くなるわけでもないし、反省はあっても
今に反映できる後悔のしようがないし、自分責めに走って
あまり意味がありそうな感じもしません。
時間は一方通行なのだから。
後悔はどんな時間を過ごしていても、過去に対してはどうしてもするものでしょうし。

母に対して、私を産み育ててくれた感謝のほうが大きくなっていきました。

将来的に母は死ぬでしょう。
人間は100%の確率で死にます。そこには誤差もブレもなく。100%死ぬ。
それがいつなのかは、わかりませんが、いきなり死ぬと言うよりも、
歳をとって、体が弱っていき、思うように体が動かなくなり、
削られて、小さくなって、命の火を弱めながら、いずれ死ぬ。

おそらく今の母は、その道半ばにあって、母の体は、
癌細胞があって、体も弱り、体力も削られて、思うように体も動かせず、1日中寝床にいます。
今回の癌のお薬の副作用が抜ける過程の中でも、チョットずつチョットずつだったように
毎日の中で、チョットずつ削られて、チョットずつ命の火を弱めていくのでしょう。
ただ、今回の副作用の出方は、チョットずつではなく
ググッと来て、ガツンとしていました。

私の精神科の帰り、母とマクドナルドでハンバーガーなどを買って、家に戻りました。
そのハンバーガーの袋を眺めながら、母と買ったマクドナルド。っと思うと、
とても嬉しくありがたいものに見えていました。
その日を振り返り、母の車椅子を押せることへの喜びと母への感謝。
私が料理を作っている時も、これを母が食べてくれると思うと、
嬉しくなって感謝の念がわきます。
母の使った食器を洗っている時も、食器洗わせてくれてありがとう。と思い嬉しくなり
ゴミ捨ても、トイレ掃除もお風呂掃除も、もちろん自分のゴミと汚れでもあるんですが
母の出したゴミを片付けさせてくれてありがとう。
母の使うトイレやお風呂を掃除できる嬉しさ。感謝の念。
作った食事を食べてくれて、洗った食器を使ってくれて、
掃除したトイレや風呂を使ってくれて、色々、私に頼み事をしてくれて
本当に嬉しくってありがたくって、感謝の念が沸き起こりました。

そう考えて、そう感じていく中で、悲しみは薄れ、
母がグーグ寝ていれば、同じ時間を過ごせていることへの母への感謝もわき
母がテレビのチャンネルを変えれば、
寝ながら起きている母と時間を共に過ごせて居ることへの感謝など、
存在そのものに嬉しさを感じ、感謝と尊敬の念が沸き起こります。
特に、尊敬させてくれる母に対する感謝と喜びが大きいです。
母を見ると感じる嬉しさと尊敬と感謝の念が、沸々とおこり
悲しさが薄らいでいきます。
また元気になってくれそうだ。っと言う思いもおこりながら。

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母の体力と私の不安

行政に相談した結果、民間の業者さんから
行政から借りるのと同じ値段で、
しかも、家まで運んでくれて、短期で借りた車椅子を、行政に返却までしてくれると言う
とてもありがたい説明を受けて、行政の方が申し込んでくれました。

福祉関係のレンタル屋さんで、とっても親切丁寧な方で、
車椅子を、介護保険申請まで借りる予定ですが、介護保険が通ったら
またこの業者さんに借りたいと思いました。
家まで運んでくれますし、とても親切丁寧な方のようですから。

もはや車椅子は家に常備して置かなければ、母は、病院にも行けません。
そもそも、近所のゴミ捨ても出来ないのですから、
介護保険と車椅子は、必要不可欠だと思いました。

さいわい食事はとっていますし、トイレも自分でしています。
ただ、ガンのお薬の副作用はかなり強かったようで
ガンのお薬をやめて、それなりに時間が経ったのですが
回復傾向にはあるようですが、なかなか抜けるところまでは道半ばのようです。

今回のお薬の副作用で、母は、大きく体力を落とし、気力も凹ませてしまいました。
体調も、改善とか回復には至らず、
おそらく今回失った体力は、もう戻らないでしょう。
ゴミ捨てにも行けなくなり、近所のスーパーでの買い物や単身での通院も無理でしょう。
外出はもちろん車椅子での移動となると思います。

そんな中、今日は私の精神科への通院日でしたが、
母が先生にお会いしたい。と言うので、母を車椅子に乗せて病院まで行きました。
先生に挨拶をするということでしたが、
色々と先生に相談したり、話を聞いてもらったのでしょう。
私の診察で、母が先生に主に話したのは、自分の死後、息子の金銭面が心配。
そういった感じのことのようでした。
死にゆく中にある母に、そんな心配をさせているのかと思うと
申し訳なく、でも、働けるのなら働いていますし、
やはり自分が情けないっと思うと同時に、母の死が、未来に待っていることを
実感すると言うか、想像せざる負えないでいます。

母は、毎日寝床に居ます。
お喋りをする日もありますが、やはり体調も体もつらいのでしょう。
特に、たとえ車椅子に乗って出かけたとしても
準備やお風呂や、緊張感などもあるでしょうし、
足があまり上がらなくなっていますし、手すりがあったとしても
とても大変そうです。
外出そのもので疲れてしまっているようです。
しかも、ガンはあるし、その薬の副作用で苦しい思いをしています。
母を後ろから見ると、こんなに小さくなって、足もおぼつかないのか。
そんな景色を見ると、胸がつまります。

私の先生への挨拶を終えて帰宅すると
母は、とても疲れたのでしょう。
寝床に行って、なんだか話すことも今はやめたいという感じで、
何時間か眠りにつきました。
昨日は寝れたのか。今日はどれだけ疲れたんだろうか。
今日失った体力は戻るのだろうか。
日々、命の火を弱めながら、削っていくようにしている母を見ているのは
やはり悲しくって、厳しいものがあります。

母が乗った車椅子を押せれる今。
私が作った食事を食べてくれている母。
その今にこそ、注視して考えて感じていこうと思います。
でなければ、悲しさと不安で、私が持ちません。

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母の体調。車椅子

近所にゴミを捨てに行くだけで、ダウンしてしまう母の体力を考え
母の次の通院を考えると、難しいだろうな。っと思い、
行政で、車椅子の貸し出しをしていないかを調べたところ
緊急用に、1週間程度、貸してくれる事がわかりました。

母は介護保険を申請していないので、
民間のレンタル車椅子だと、全額自己負担です。
翌日に、母の通院を控えて
早速、ホームページに書いてあった場所に電話。
できれば3ヶ月位借りたい旨を伝え、介護保険が通ったら返却します。っと言うと
地元にある相談窓口を紹介してくれました。

私は車の免許を持っていません。
精神的な病で、集中力の欠如がありますので
車を運転するプレッシャーや緊張感。集中力欠如による事故の可能性。
お金がかかる。などを考えて、たとえ免許を持っていたとしても
車の運転はしないでしょうし、
閉所恐怖症のような、乗り物に乗ると予期不安、悪ければパニック発作が出ることもあり
移動は、自転車で行けるところは自転車頼みです。

電車に乗らなければいけない場所に行く場合は、
乗っていたらパニック障害が出るかもしれない。っと言う緊張感から
予定が入り次第、具合が悪くなります。
そしていざ駅に行っても、何故か通過電車に飛び込みたくなってしまい
その恐怖から、駅で震えだしたりしてしまいます。

しかし、母の具合や体力を考えると、
パニック障害や予期不安と約20年以上も経験してきたので
耐えるしかない。っと覚悟を決めて、母の病院までの車椅子の付き添いを決断しました。

肝心の車椅子は、地元の相談センターに行き、簡単な扱い方を教えてもらい
今後の車椅子の借り方や、介護認定に至る流れなどの説明は
とりあえずこの日は、待ってもらいました。
折り畳める車椅子ですが、持つと重いんだな。自転車のかごにも入らないな。
っということで、歩いて運んで帰りました。

翌日、母は、「車椅子はいらないよ。病院にもあるからね」っと言いましたが
階段を登っただけでバテてしまい、乗って行くこととなりました。
外で車椅子を準備して待っていたら、近所のおばさんに、
「お母さん歩け無くなったの」「歩けはするんですが、あったほうが良いと思い」
「大変ね。お大事にね」っと、言ってくださいました。

母を乗せて近所のバス停を目指すと、歩道の段差と、ガタガタ揺れることと
なんだか真っ直ぐ走らないので、押すことが難しく
車には十分注意しながら、車道の端で車椅子を押しバス停まで行きました。
ガタガタ揺れるのが母の体に良くないだろう。っという思いと、
何故か斜めに進みがちで、押すのが難しかったからです。

母は、「助かるわ」「楽だわ」っと言って喜んでくれました。
車椅子に乗っている母を後ろから見ると、とても寂しく少し悲しい気持ちになりました。
バス停に着くと母は、車椅子からバス停の椅子に座り変えて
私は、車椅子をたたみ、程なくしてバスがきました。
母は、上がりにくくなった足を一生懸命揚げて、バスに乗り込み
私は、折りたたんだ車椅子を持ち上げてバスに乗り込みました。

バスに乗ってみると、折りたたんだとはいえ
縦に長いのはそのままなので、座席2つ分くらいの専有してしまうことに気を使いました。
他の人のじゃまになるべくならないように。
バスの中で車椅子が倒れないように。

駅に着き、一生懸命下車する母を前に(私が先に降りて支えるべきでした)、
あとから、車椅子をおろして下車した後
母に車椅子に乗ってもらいました。
乗る時や立つ時も、サポートすべきでした。
駅のエレベーターを使い、移動。その後スイカチャージをする母。
改札を通り、エレベーターに乗り、ホームで電車を待っていました。
乗降車する駅の、エレベーターの場所は把握していましたが、
電車にも、車いす用の車両があるとは知らず、後に乗るJRに乗って初めて知りました。

電車内でも、やはり車椅子の場所の専有感が気になりました。
折りたたんでも、座っている人2.5人分。立っている人の大人2人分は使います。
乗り換えの、大きい繁華街の駅で一旦降車して、
思っていたエレベーターのあるホームではないので、どうしようかと思いながら
母に車椅子に乗ってもらいましたが、「母がエスカレータで降りよう」っと言ってくれて
エスカレータまで行き、母は立ち車椅子はたたみ、エスカレーターで地下まで降りました。

そこからまた母には車椅子に乗ってもらいました。
目的の電車の改札まで行き、エレベーターのある場所に行くと
一人で大きめの自走自動式の車椅子の方が、駅の職員さんと共に待っていました。
母は、横にあったエスカレーターを見て、「エスカレーターで上ろう」っと
車椅子を降りていきました。

とても乗降の多いこの駅のこの電車では、降りる人も多い分
母は座れるだろうとは思いましたが、私は急ぐと危ないとも思い、
母に「先に行って座って欲しい」と告げて、私はゆっくりと折りたたんだ車椅子とともに
立って乗り込みました。
乗ってみてビックリ。車椅子・ベビーカー専用スペースが電車内に有りました。
母を探すと、すでに、優先席に座っていたので、
私は、車椅子スペースに、折りたたんだ車椅子を置き、目的の駅に向かいました。

目的の駅でもエレベーターはあるのですが、母は、エスカレーターで上に行き
いつものコースを行きたい様子でしたので、エスカレータ以外は車椅子に乗ってもらい
母の指示で動きました。
バス停に着き、椅子に座りなおす母。
バスが来て、母は優先席に、私は空いている席に乗って、
車椅子を置きました。
降りる時に分かったのですが、車椅子が、後ろの座席の方の通路を塞いでいたようでした。

バスを降りて母に車椅子に乗ってもらい、病院に突入しました。

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