診察日(社会的共有時間と孤立)

前回の診察時には、母が先生に挨拶をしたい。っという事でしたので
母が挨拶の後に、私の診察となり
あまり話をしませんでした。

今回は、私1人での診察ですので、
前回の診察の時に言った「お金さえあればなんとかなります。無いですけど。」っと、
母が先生に私のことをそう言ってくれたようなので
私もそう言いましたが、これを訂正しに行きました。

仮にお金があったとしても、生きていけるはずが無いと思っています。
今の私の、自分以外の他人との関係は、「母」がほとんどです。
ですから、母が死んでしまったら、極端なくらいに
自分以外の他人との接点がなくなります。
これは結構キツイことだと思っている。というか、無理。と言う趣旨で、先生に話そうと思い
待合室で待っている時に、雑誌コーナーにあった
「こころの元気プラス2022年10月号」の特集「つながるって大変」を読んでいました。

ちょうど今回先生に話そうと思っていた、人や社会とのつながり等を
紹介してくれている記事でした。
すべて参考になったのですが、特に「無理しない」「焦らない」と言うことを
感じさせてくれた、実体験の経験談でした。
そして、社会や自分以外との他人とのつながりにおいて
私は今もそうなるでしょうが、
まず、雛形のような人間関係を持ち、自分が疲れて、ほどなくしてつながりが切れてしまいます。
そしてここから、経験談や思いを書かれているのですが、
自分次第の、自分なりのつながりにいたるケースが主に前半で、
人や社会との明確なつながりはないが、
経験談を書かれている方の考えでは、こういうつながり。ああいうつながり。
も、つながりだと捉えている方々のお話が後半部分になっていました。

最近読んだ、中野剛志先生の「奇跡の社会科学 現代の問題を解決しうる名著の知恵」を読んで
(私のような低学歴のモノでも楽しく読めました)
社会・組織体の中での人間性がとても必要で不可欠だとも考えました。
そこから見えてきたのは、
やはり人間性が大切であって、効率性や合理性ばかりを追求したり、
学校などで言えば、喧嘩が強いとか、運動神経があるとか、絵がうまいとか、
(それらすべてがなく居場所もなかった私ですが)
そう言うことではなくって、それはそれで良い。
自分が自分であるという認識は「我思う故に我あり」ではなく、
他者との関わりや、会話、タダ居る。それでまずは良いという風に感じました。
そして、日本語を話し、父と母から生まれて、いつも通る道路や
よく行くお店などがあって、家ではテレビを見たりする。
そういった要素があるのだから、そこに要られることが居場所はなくても出来た。
そして、それは社会性を持ち学び維持していく上で、とても大切なことだった。
っというように自分なりの理解をしていきました。

不登校や、学校が苦しい子供などが無理やり行く必要がないのも
その組織や共同体にいて、人間味が押しつぶされてしまうのならば
そもそも行く必要がなく、その組織や共同体や学校が、合わない人が出てくるのは当たり前です。
特に未成年は、多感なのですから、むしろいろいろな感性を持った子供が出てくるのは
その学校の健全性でもある証が不登校なのかもしれません。

中野剛志先生の本を読んで、「社会のマクドナルド化」に警鐘を鳴らすようなイメージでした。
低コストで、時間どうりに、いつも同じ味の商品が出てくる。
しかし、そこで働く人の離職率や休職率は高く、
人間はそういった過酷な環境下で働き続けることは出来ない。
客の側にしても、座りにくい椅子でいつもの味を食べて
長い目で健康を考えると、低コストなのだろうか。精神的な健全性があるのだろうか。
と言った部分で、結局は合理的でも、機能的でもないのではないか?
と言う感じでした。
大人でもそうなのですから、多感な青少年が必ずしも、決められた学校に
通うことが楽しい人もいれば、行きたくない人もいるのは当然でしょう。

日本語で放送されているテレビを見ることも社会との繋がりでしょうし、
自分を生み育ててくれている親のもとに居ることも社会性でしょう。
ただ、精神的にはきつくなっていくと思います。

つまり今回の診察で先生に言いたかったことは、
母が死ぬと精神的にきつくなっていく。
過去の記憶をたどったとしても、その存在の大きな部分。母がいなくなるのですから。
共有記憶ではなく、個人の記憶となると、それは妄想かもしれません。
学校・組織・家族・他人、との共有の記憶ではない
個人の記憶は、あまりにも不確かだし、妄想だと言っても良いのかもしれません。
そのような個人だけの記憶や考えは、拠り所がまったくないために
そして不確実で不確かなために、後悔や自責の念にとらわれ始めた時に
あまりにももろすぎる上に、歪んだ方向性に進むか、自分を責めることを止められなくなるか。

社会と関わりを持ちたいけれども、
今までうまく行った試しもない。と言う所で「こころの元気プラス」を読み
「焦らない」と言う気持ちが持てたのは非常に大きかったです。

人間関係や他人との関わりは、わずらわしさも多くあります。
だけど、自分以外との他人と関わらないと、
いくらお金があっても生きてはいけないでしょう。
そして私やうちの世帯にはお金がない。
その上で母がいなくなる。
恐ろしいのですが、
だからといって「焦らない」
だいたい私は、
雛形のような真っ当な感じを求めて失敗します。
自分の中での他者との共有性を感じられる時間を少しでも過ごせたら
それはそれで社会性だとも思いたいところです。
母は「私が死んだらあんた一人なのよ」と言われて「全然大丈夫。なんとかなるし」っと
格好のいいことを言い続けていますが、
実際は、落ち着きを持って考えて感じていかなければとも思っています。

追記:投稿30分後
自分で読み返し、自分がアホであること。めんどくさい。そう言う考えだからじゃないか?
と言う考えが浮かびました。

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