出来ないことに不安をふくらませて焦る(母の体調不良)

かつてお釈迦様が言ったとされる「第一の矢第二の矢」の話と、
キリスト教のニーバーさんが言ったという「ニーバーの祈り」と言う
2つの言葉を思い出すことで、
苦しんでいる母に寄り添いながら、自分の不安や動揺を抑えて、
なんとかできるようにしていかなければ。っと言う焦りもありながら、
こういうものならば、受け入れなければ。と言う思いも浮かびつつ、
やはり、動揺と不安とあせりは、母が回復するまで消えませんでした。

お釈迦様の「第1の矢第2の矢」は、様々な解釈やたとえ話があるようですが
1本目の矢は、老い・病気・死、地震などの天災などで、
さすがのお釈迦様も、この1本目の矢は刺さるようです。
しかし、2本目の矢(老いの恐怖や抵抗、病気に対する不安、
死に対する恐怖や不安、避けようのない出来事に対しての不安や怒りや悲しみ)は、
お釈迦様には刺さらないと言ったようです。
外部リンク(.pdf)まことの保育202105_今月のことば_cc15

「ニーバーの祈り」はそのままで
「神よ、変えることの出来ない事柄については、それをそのまま受け入れる平静さを、
変えることの出来る事柄については、それを変える勇気を、
そして、この二つの違いを見定める叡智を、私にお与えください。」
外部リンク ニーバーの祈り|心に響く言葉|モチラボ


母が体調不良をおこし、日に日に悪化していくように思えました。
私は、不安と動揺がありましたが、
表に出さないようにしながら、母の体調を少しでも聞いていこうとしました。
母は、初めのうちは寝込んでいるだけのようでしたが
強い吐き気や倦怠感があるようです。
母に聞いてみると、「食い過ぎた」っと言うので、食い過ぎでダウンしたのか、っと
当初は思っていましたが、日が経つごとに、発熱、胸や背中の痛み、なども加わり
介助なしでは、寝返ることも、起き上がることもできなくなっていました。

この時の母が言うには、「食い過ぎ」はブレることはなかったのですが、
背中や胸の痛みは、昔経験したことのある、気管支喘息に似ている。っというものでした。
母の背中をとんとん叩いたり、首の付根などをもんだり、
起き上がる、立ち上がる介助をしました。

昔、兄が喘息になった時も、首の付根や背中の痛みを訴えていて
特に、体が凝りまくって苦しいと言っていました。
私はお医者さんではないので、わかるはずもないことは自覚していましたが、
うなり苦しみながら動けずに寝ている母が心配で、不安感と焦りが募り、
検索をかけてみたり、近所の内科医を調べていきました。

やはり気になっていたのは喘息、気管支炎、胸膜炎などで、
コロナかもしれないとも不安を膨らませていきました。
それに全身転移の末期ガンで、薬もやめて、そう言う影響があるとも考えました。
(その場合は受け入れるしかない。っと)
分からないだけに、動揺して、不安も強く、自分がお医者さんでもない。
それはわかっているつもりでしたが、苦しんでいる母に、
「明日病院に行こう。我慢は必要ないよ。近場の病院でもいいし。睡眠も取れないみたいだから」
っと、うながすと、「行かない(キッパリ)」と言われてしまいました。
お風呂に入っていないことを気にしてるのかな?
確かに、発熱があるということは、悪くはないし、多少声に元気が出てきたとも思うけれども
とてもつらそうで、気管支炎などだったら、悪化するだけではないだろうか。
っと言う思いもあり、「近所の病院に予約だけ取るから、行かないならキャンセルするから」
っと言うと、予約だけは取っていいことを承諾してくれました(渋々)。
その日の夜の母は本当に苦しそうで、
母の要望で、背中を擦り、背中をトントンして、寝たまま水分をとってもらいました。
(ストローって便利ですね)
私にできることは、それぐらいですし、寄り添っていることしか出来ません。
部屋に戻った私は、早速近所のお医者さんを探し、当日予約制ということなので
電話帳に登録。そしてトランシーバーを購入いたしました(不安とあせりの具現化のようです)。
母はLINEで私を呼ぶのですが、もうスマホを持つことも辛そうでしたから。

以前、母の病院の看護師さんに相談した時に、
こういうものだと言うことならば、それは受け入れます。っと、
薬の副作用で苦しんでいた母を心配して、カッコ良いことを言いましたが、
実際母が苦しんでいるところで、寄り添うことしか出来ない自分と
苦しんでいる母に不安を強くして、何故苦しんでいるのかもハッキリとはわからずに不安で、
全然受け入れていませんでした。

翌日、病院に予約の電話を入れようかと思い、
母に聞いてみて、ガンの病院まで行くか、近所の病院に行くかを聞こうと、
母の寝床に行ってみると、「凄い良くなった!」っと開口一番に言いました。
「じゃあ、病院はどうする?」「行かない。昨日がピークだったみたい」とのこと。
ホッと胸をなでおろしました。

それにしても母の凄さを思い知りました。
一貫して母が言っていた「食い過ぎ」だったようです(真相はわかりませんが回復したので)。
しかも母は、その上で各症状を受け入れつつ、できる対処をして行き
出来ないことは私に頼み、結局回復してしまったのですから。

昔の偉い人は、最終的な拠り所として「内なる直感」を大切にしていた人も居たようです。
自分の経験や、知恵や、社会との関わりの中で培ってきた常識や、
共有的な知恵、文化・伝統・歴史などを頼りにした「直感」ならば、
もの凄く頼りになりそうです。
外部リンク You Tube 【東京ホンマもん教室】「神」を無くせば「クズ」になる!?~統一教会問題を改めて考える~(9月24日 放送分見逃し動画)29分55秒から

母は長く生きて来て、様々な知恵や経験も持ち、
母の親兄弟との生活や、社会性・職場などで得た、共有知識も豊富でしょうから
もし今回母が、「直感」を頼りに、症状を受け入れて対応し、
出来ないことは私に頼み、私を頼ってくれて、回復しちゃったのだとしたら、
尊敬の念を強くするばかりです。

結局私は、いつもの私でした。
考えることや、そうしようと思うことは格好をつけているのに、
動揺して、不安にかられて、妄想が膨らんで、病院に連れて行こうなどと、
母に余分な負担を、私が安心したいがためにしてしまうところでした。

後は、母に、今の体力や行動範囲。食事の量や味の濃淡。等を、
今の母の体にあったペースでつかんでくれたらと思います。
(私がこんな事を考えなくても、母は、もうすでに自分で獲得しているとも思いますが)

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