2018年 08月19日 応援→妄想→ツライ→変質者。

応援しているアーティストさんのことを考えていたら、

若くて魅力的な女性に、居て当たり前な彼氏さんの存在を忘れていました。

で、色々妄想した結果、

アーティストさんに彼氏がいる、居ないとか

この方がどう言う感じなのかとか、

メンタリティーなどを考えたところで、

私には何も関係がない上に、

わかるわけがないということを思いました。

 

考えてみれば、

むかし、丸山夏鈴さんを応援していた時も

そんな思いにとらわれてしまったことがありました。

 

あんなに素敵な女性を応援しているのになんだかツライ。

でもライヴに行かないと寂しい思いをさせてしまうかもしれない。

 

自分で書いていて、この気の狂いっぷりに

怖さを感じますが、

この時は、割とすぐに冷静になれました。

 

応援自体にツラさを強く感じたためです。

「ツライのはなんでだ?」っと思い、

「あぁ~。私がアイドルさんの特別であると考えてしまっている。」

「その上で自意識過剰に妄想をして、なんとか、特別な存在という妄想を補充しているようだ」っと。

 

「あなたは特に、意味のある特別です」っと言われれば特別かもしれませんが

(ただそう言われたらまず宗教の勧誘を疑うというか)

「ライヴに来てくれてありがとう」

「応援してくれてありがとう」

「チャキ買ってくれてありがとう」っと言う感じですから、

ライヴに足を運んだことと、

応援していることを感謝されているわけです。

 

当時、順調にファンを増やしていたマルカリさんのファンの1人として

その範囲で楽しみ、

その範囲で満足感を得ようと気持ちを切り替えて

見た目の素晴らしさや、

ライヴの時の楽しさを、

楽しめそうなときにだけ足を運び、

どうも体調的にも楽しめそうもないぞ。っと言う時は、

行かないでいました。

 

応援しているアーティストさんがどう言う事を考えているか。

サッパリわからないことを大前提に

分かる可能性があるのが、歌の歌詞ですが、

大勢に歌っている上に、不確定要素が強すぎます。

そもそも、「考えている事」よりも「表現したい事」のような気もします。

 

SNSで、画像や映像で楽しませてくれますが

あくまで、ライヴ表現に重きを置いているアーティストさんだと思うので、

SNSから、何かを感じられたとしても

更に楽しい応援につながるためのツールか、

ライヴに足を運ぶことに前のめりになるか、

その応援の範囲で楽しめなければ

わからない人の、わからない生活を

ひたすら想像するという

もはや、これはストーカー超えてるじゃないかと言う感じです。

 

自分のメンタルを

自分で、不愉快な方向に、追い込みをかけているだけでしょう。

 

それだったら、応援や、ライヴをより楽しめる方向で

アーティストさんの存在を楽しませていただくようにしないと

おそらくライヴに行っても

楽しめないということを思い出しました。

 

私がオッサンなのは自覚していますから

かつてうしじまいい肉さんがツイートで言っていた

紳士(紳士ぶれる)ファンだったり、

もっとラフに楽しめるファンになりたいのですが。

 

あぁ~。

危うく「応援しているアーティストさん」と言う燃料で

自分を追い込むところでした。

 

 

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2018年 08月17日 昔書いた履歴書を読んで、具合が悪くなる

応援しているアーティストさんがいるのですが、

ここ最近「変わらなければ」とか、「自分と向き合う」とか、「変わることって苦しいのかな」など、

何かあったのかな?っと思う投稿がSNSで目についたので、

・好きな人に振られた

・好きじゃない人に告白された

・何かしら事件にあった

などと考えていましたが、

ひょっとしたら、

自分とは何者なのか?と言う思いにかられているのかなぁ~。っと思いました。

 

そこで若かりし頃の自分の記憶をたどってみました。

 

その頃は、何者でもない自分が、恥ずかしくって、苦しくって、

あまりにもその思いが強すぎて

その隙間にスッポリと、自意識過剰と、こじれた被害者妄想がはまり、

集中力と体力を振り絞って

自分の首をグイグイ締めていました。

 

ドンドン鬱になって行き、焦りも強く、イライラしながらも

必死に現実逃避(テレビを見まくることで、空想の世界の住人になる・自意識過剰たっぷりに)を

しまくってもいました。

 

何者でもない自分を、何者かにするためには

どうすれば良いのかを考えていたら、

ノイローゼになり、最終的には精神科にお世話になって

日常生活もままならない体調になっていました。

 

ただ、そのことで、「病人」にはなれた訳ですが。

 

(全員が全員、精神的に病むようではないようです)

(ある方は、狂ったように同じ戦車のプラモデルを作りまくったそうです→その後社会人に)

 

全く病気が回復していないのに、

何者でもない自分への恥ずかしさは

自意識過剰も手伝って

やはり苦しいものでした。

 

社会人になれば何者かになれるかもしれない!

っと言う、短絡的な思考で、社会人になることを目標としました。

 

日常生活もままならない体と意識なのに、

そもそも良い考えが浮かぶわけもないですし、

仮に社会人を目指しても、なれるはずがないのですが、

(なったとしても続くわけもない)

思考力と集中力は、ほぼ全てノイローゼに持っていかれていますから

立つことすら苦しい体で、強い焦りの中、履歴書を書くことにしました。

 

震えが止まらない手に力を入れて、なんとか書こうとしたら

ゲロを吐いて気を失いました。

 

普通に考えれば、その時点でどうかしている自分に強い警戒感を持ち

一旦落ち着かなければと思うものかもしれませんが、

社会人になれれば、なんとかなる。と言う浅はかさで

履歴書を書いていました。

 

(たとえ社会人になれたとしても、やり甲斐を得られなければ、やはり何者でもないと思います。

社会性・人間関係を持つ会社組織のなかで、自尊心や、自己認識欲も得られなかったでしょうから。

やはり、どんなに少しでも良いので、就職それ自体ではなく

気持ちがある仕事を探すべきでした。)

 

またこの履歴書というのが辛かった。

 

経歴の空白期間。この時期何をしていたかと言う「嘘」を考えるわけですが

それも、嘘バレバレの嘘を書いていました。

でもそのくらいならば大したことはなかったのですが、

「長所」「短所」の欄が、とてつもなく苦しみを己に与え続けた記憶があります。

 

おそらく

自分で自分を客観視出来ているか?と言う、項目だと思うのですが、

そもそも自分にこだわって、ノイローゼになって体まで壊したのですから

苦しいに決まっていますし、

多くの方々が、「自分の長所」「自分の短所」を考えた時に、

本当に書ける人がどれくらいいるのかと思ってしまいます。

 

オッサンになった今、

自分の本心から、長所・短所、を考えたら

急激に具合が悪くなりました。

 

それでも一応考えついたのが、

長所は「ない」

短所は「わからない」でした。

 

そもそもオッサンになった今、

人としてドンドンレベルダウンしていくこの感覚は

「自分」「自我」「自意識」「我思う故に我あり」「自己への客観性」「自分の社会的存在理由」などなど、

そんな事を考える体力も集中力もありません。

といいますか、そもそもそんなものは無いという感覚になったといいますか。

 

若い頃は、「自分」の身の置所。(居場所探しという方も居ます)

社会的にも認められていて、恥ずかしくない場所を漠然と手に入れようとしていました。

「何者かになりたくって」しょうがなかったのです。

だから自分を客観視しようともしました。

 

そしてなぜだかよく寝てました。

精神科に通う頃には、ほぼ睡眠が取れなくなっていましたが

その頃を除けば(と言っても何年もですが)、

若い頃はよく寝ていたという記憶がございます。

 

高校を出て、もしくは、専門学校、短大、大学、大学院を順調に卒業後

順調に就職して、社会の中で生きておられる方々も

若い頃は自分を苦しめる思考を持ったり

よく寝るのでしょうか。

 

昔のお嫁さんの多くは、

家事手伝いを経て、結婚ということで、社会の一員になったと思います。

そのことによって、「社会的肯定感」や「自尊心」「自己認識欲」などは満たされていたのかもしれません。

今もそうかも知れませんし、

全くそうじゃないかもしれませんが。

 

しかし、

さすがオッサンになると、若かりし頃の記憶ももはやぼんやりとしていて

苦しみぬいた毎日を送った日々を思い出そうとすると

もうあの日々は来ないでほしいと心から思います。

 

大島渚監督の映画に「青春残酷物語」というのがあります。

見たことないので内容は知りませんが

この映画のタイトルは、その通りだとも思いました。

 

いまは、肯定感もなければ否定感もないように思います。

そもそも、「自己」を考えなくなった(られなくなったオッサンだから)とも思いますし。

 

 

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過去10年分ぐらいのブログデータが消えちゃいました。

過去のブログを、

私の浅はかなパソコン知識で

綺麗サッパリ消してしまいました。

 

思い返せば、

5~8年スパンで

パソコン自体のデータを消してしまったり

サーバーにあるデータを消したりと

データを定期的に消してしまっていますが、

「丸山夏鈴さん」のライヴレポートが消えてしまったのは惜しいですが、

ハードディスクやサーバーにあるデータも、

消える!

と言う戒めになるし、

強いこだわりがあるわけではないので、消えても、

「新しいこと出来るや」っと思えば

後悔もありません。

(強い未練はものすごくあります)

 

ただ、その新しいことをやるのが面倒なのですが。

あと、丸山夏鈴さんのライヴブログは

残しておきたかったですが。

 

思えば、

ビデオデッキがもはや過去の遺物となりかけた時期に

一生懸命、ビデオテープに保存しておいた映画や映像。

そしてAVをハードディスクに移行しようとしましたが、

6時間テープならば、6時間、ビデオを再生して

パソコンも録画状態にしていなければいけないのですから

かなり頑張りましたが、いい感じで作業が進んでいきました。

 

が、

パソコンのハードディスクドライブ交換の折に

全データを消してしまいました。

 

J-WAVEで深夜に放送されていた

石野卓球氏のDJ-Mixも

かつて録音したラジオの番組も、

綺麗サッパリ消えました。

 

例えばお笑い番組にしても

過去の番組をいつまでも見ていてもしょうがないですし、

AVなどは、出演されている女優さんのことを考えれば

むしろ消してよかったのかもしれません。

いや、残しておきたかったですが、

画質が劣化しているから、残しておいても

あまり意味がなかったかもしれませんが。

 

ラジオの番組や、石野氏のMixテープも

流行り廃りが早い時代の流れの中で

消えてしまったのは必然なのかもしれません。

 

「断捨離」「求めない」「頑張らない」

そういう本がいつだったか流行ったことがありましたが、

私は失ったAVを求め続けています。

そのためにすごく頑張っています。

そもそも、テクノロジーがビデオテープで止まっていれば

失わなかったのに。

捨てたくはない物は、どう言う訳だか

私の頭の悪さで、ドンドン失ってしまいます。

 

「断捨離」が出来て、「求めない」が出来て、「頑張らない」が出来る人間なんて、

いるはずがありません。

「断捨離」と言う、過去の記憶や、記憶に形どった妄想 も含めて捨てることが出来るのは

定年後に田舎暮らしを始めたらできそうな予感もしますが。

 

「求めない」生き方は、お金のない、

年金ぐらしのお年寄りじゃなければ

そんな偉そうなことは言えないはずです。

 

同じく「頑張らない」もそうです。

 

「断捨離」を行ない

「求めず」「頑張らない」を実行したら

普通は死にます。

餓死します。

 

初代タイガーマスクの佐山サトル氏が提唱した

「打・投・極」の回転。

このほうがよほど興味を引いて離しません。

 

「求め・頑張り・捨てる」その回転。

カッコいいような気がします。

 

人は自意識の強い、不完全な生き物でありながら、

社会性の欠如を強いられると生きてはいけず

そのことを「弱者の社会問題」「老人の孤独死」とか

意味不明なことを言ったりします。

 

私は、感情は自分でどうにかできるものとは思っていないので

(理性や社会性で抑え込めはしますが)

人間が動物であり、社会性を必要としながら、積み重ねに多くを頼り

共有していかざる負えないとしか思えません。

 

人間の不完全さや、コミュニティーとその蓄積が持つ重要さ。

組織に従属することでの社会性など。

 

引きこもりの中年が言うべきではないですが

重要としか思えません。

 

あとは、戦争です。

沢村賞

この沢村選手は、メジャーリーガを相手にバッタバッタと三振をとったのに

徴兵されて戦地に赴き戦死しました。

他にも、当時とても人気があった6大学野球のスターや

高校球児も、戦争から逃れることは出来ませんでした。

 

シベリアに抑留されて戦後も日本に帰れなかった名選手や

一般のおっさんが徴兵されて

理不尽に上官に殴られて鼓膜を破った多くの方々。

 

兵隊で戦った→終戦→運よく帰国→働く

こわい。

 

今日は、埼玉西武ライオンズのチケットを買ってあったのですが

ホームページやブログが、絶不調だったため

その回復に努めていたら、頭が疲れてしまって

観戦をやめました。

 

そして今は、たくさんのイカの塩辛をつまみに、お酒を飲んでいます。

 

 

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